10・2泊原発見学ツアー
北電の安全対策の実態に迫る
― 原子力環境センター、とまりん館、泊原発を見学 ―
3・11フクシマ原発事故の年の秋、全国交流集会が札幌市で開催された時から5年ぶりの見学ツアーを実施、安全対策の実態に迫りました。参加者は、札幌市内のほか江別市、遠軽町丸瀬布、余市町、蘭越町から14人でした。
とまりん館では、ビデオ映像を写しながら佐藤公一副館長が、泊原発の仕組みの概要や安全対策の実施状況などを15分程度説明、若干の質問の後、館の車に乗り換えて敷地構内入り。まず海抜16・5mにかさ上げされた防潮堤の上を走行、16・5メートルの高さにかさ上げした理由は、地震と津波が同時発生し増幅し合った場合も想定し、津波が越波しない高さにしたものだと力説。続いて車で海抜75m地点にある展望台にあがり、展望台から泊原発全景を一望。快晴の秋空で見晴らしもよく、泊原発1、2,3号機の原子炉建屋と隣接する使用済み燃料貯蔵棟、タービンと発電機のある原子炉補助建屋、ろ過水タンクや純水タンク、原発専用港にある海水取水口や放出口の位置、山火事から原発施設を守るためにモルタルを吹き付けた防火帯(幅40~60㍍、長さ2150㍍)などについて、木下耕司とまりん館課長が順次説明しました。このなかで、安全対策の中心が、①津波から原発を守る津波対策、②電源喪失時の非常用電源確保対策、③炉心損傷を防ぐ水素発生抑制対策などにあり、耐震性の強化策は「ろ過水タンクも燃料貯蔵棟などは3・11後補強工事はしていない」「それらの施設や協力会社の建物などは、建築基準法が定める耐震強度を持っており、基準地震動が決まり、補強工事が必要となったものが出てくればその時点で補強工事を行うことになっており、今は補強工事はしていない」など、耐震対策は2の次という印象でした(写真 下)。結局、2000億円を超える巨額のカネをつぎ込んで、「絶対安全だとは言えない」原発の再稼働ありきで突っ走る北電の暴走ぶりを如実に示すものでした。参加者の感想を紹介します。
フクシマ原発事故で南相馬市の実家を失った
遠軽町丸瀬布から参加の小野正和さん
遠軽町丸瀬布から参加の小野正和さん
南相馬市にあった母親の実家が、福島原発事故で放射線が降り注ぎみんな避難を強いられ、鉄工所を経営していた従兄弟も含め、結局家も土地もすべてを失った過酷な経験をして、「一度北海道で唯一の原発・泊原発を見ておきたい」と参加したという遠軽町丸瀬布の小野正和さん(73)は、「じかに原発を見たが、あらためて本当に無用の長物だと思った。原発がなくても間に合っている。早く撤去してくれと言いたい」と。
フクシマ事故後いわき市で仕事し
被災者差別の酷薄さを体験した余市の大物翔町議
被災者差別の酷薄さを体験した余市の大物翔町議
余市町の大物翔町議(32)は、往路のバスの中で、いわき市で2012年8月から15年2月まで弁当屋さんの仕事に従事し、原発被災者に対する差別・分断がひどいと語り、ツアー参加者に衝撃を与えました。例えば、「東電から金をもらって昼間から遊んでいる怠け者」と非難され、「粗末なつくりの仮設住宅の窓ガラスが投石で割られる」、いわき市への避難者が増えて小学校不足となり、新しい小学校建設を陳情すると「東電から金をもらっておきながら、今度は税金で学校を立ててくれというのか」と非難される、などなど。
大物翔さんは今回見学した感想について「一番感じたのは、北電など専門家は安全だ、大丈夫だと言うが、それは原発を動かしたいからで、一般の人との感覚のずれがひどい。たくさんの設備を使って動かしている。施設の一つが壊れても替わる施設があるから大丈夫だという。しかし、危ないから沢山の施設・設備を用意しなければならないのだと思う。そういう危険な施設はいらないと強く思った」との感想を語りました。
北区から「初参加で貴重な経験ができました」と長屋いずみさん
泊原発視察前に北海道原子力環境センターを視察、担当者から説明を受けました。「ここの施設は放射線防護措置がされていません。重大災害時には10㎞離れたオフサイトセンターで業務を行うことになります。大規模災害時には、自衛隊などが対応することになるんでしょうね」と、なんだか他人事。また、岩内の大石美雪町議がかけつけてくれ、過去にプルサーマルの是非を問う全戸対象のアンケート調査を行なった経験と「今度は再稼働の是非を問う住民アンケートを行ないたい」と話しました。全戸対象アンケートとはすごいことです。また、冷却用海水に交じって稚魚が吸い込まれることが大きな問題だと話されました。いずれにしても生態系に大きな影響を及ぼしている、と感じました。
原発施設内の展望台では「2015年度は微量のトリチウムが検出されましたが40~60㌧の水で希釈して放水する、基準値以下で大丈夫です」と説明されたが疑問は消えません。初見学で貴重な経験ができました。
9月の立ち遅れを克服し、
10月大きい前進を勝ち取りましょう
原発連―「秋季組織拡大集中行動」で加盟団体、
個人会員、ニュース読者など拡大中です
道原発連は、9月から「秋季組織拡大集中行動」に取組んでいます。10月18日までに個人会員が新たに6人加入しました。ニュースを読んでくれる方も増えています。しかし、9月度は目標の3割に及ばず10月もまだまだです。残る10月下旬と11月の約40日間、大いに増やしましょう。加盟団体役員の皆さんをはじめ、原発連役員にご尽力お願いします。必要な資材は、このニュースと一緒に送付します。
10・8 STOP泊原発再稼働!
さようなら原発北海道集会に2500人
道原発連もノボリかかげ行進
集会は、最初にさようなら原発北海道実行委員会の呼びかけ人・小野有五元北大名誉教授・北星学園大学教授があいさつし、泊原発の避難計画が検討されているが、住民は被ばくが前提とされ、西風が多く札幌はもちろん全道が汚染される、一刻も早く廃炉にする以外にない、などと呼びかけました。(写真 上)
呼びかけ人の西尾正道北海道がんセンター病院名誉院長やルポライターの鎌田慧氏のスピーチのあと、ゲストスピーチとして、九電川内原発の再稼働ストップに奮闘している鹿児島反原発連の松本成一さんが、熊本地震をへて川内原発の停止と再点検を求める世論の高まりの中、裏方でたくさん苦労したが川内原発の運転停止と再検証を行うよう九電に求めるなどの内容で政策協定を結んで三反園訓氏を統一候補に決定、急速に現職知事を追い上げ、7万余票の大差で現職知事を破って勝利した経験を紹介、全国すべての原発を止めるまで頑張ろうと訴えました。
このあと市民団体の参加者、平和運動フォーラム関係の参加者、安保破棄実行委関係の参加者の順番にデモパレードを行い、沿道の市民に「泊原発再稼働反対」「泊原発いらない」「原発なくそう」などと元気よくアピールしました。道原発連は、ノボリを掲げて青年の隊列の後に続いて行進しました(写真 下)。
― 今秋から来春に向けて大きく前進させましょう ー
チェルノブイリ原発事故で安全神話が崩壊したなか、
泊原発再稼働ストップへ
道議会請願署名推進に全力
道議会請願署名推進に全力
― 今秋から来春に向けて大きく前進させましょう ー
原発連と国民大運動北海道実行委員会は昨年9月から、①泊原発の再稼働に同意せず、廃止・廃炉を ②大間原発の建設中止を ③北海道を核のゴミ捨て場にしない ④再生可能エネルギーに軸足を移すーの4項目の実現を求め、道議会請願署名に取組んでいます。この間、6月には2310筆の署名を添えて請願書を提出、9月には、二次分として1600筆の署名を提出しました。請願は、道議会産炭地域・エネルギー特別委に付託され審議が始まっています。原発連と国民大運動北海道実行委員会は、10月の事務局会議で、今冬から来春にかけてたくさんの署名を集め道議会に反映させることを確認し合いました。ご協力お願いします。
この間、熱心に道議会請願署名に取り組んでおられる岩清水暢子さん(厚別区在住 原発連理事)の手記を紹介します。
道議会請願署名―今も道民の関心は高い。
署名用紙を持ち歩き気軽に声かけ1筆でも多く集めたい
「原発も核のゴミ捨て場もない北海道の実現を求める請願」署名は、数字的にはあまり芳しくなく、10月11日時点で4000筆ほどの署名を道議会に提出したそうです。少し前まで取り組んでいた『原発のない北海道の実現を求める全道100万人署名』で大奮闘して疲れたためなのでしょうか?それとも福島第一原発事故から5年がたち、人々の関心が薄れつつあるからなのでしょうか?
でも、毎月行われているイレブンアクション、チェルノブイリデーの署名行動では、たまたま通りかかり、わざわざ車から降りて署名して下さった方、こちらから呼びかけたわけでもないのに、すっと寄ってきて署名していかれた方、「頑張ってくださいね」と声をかけて下さる方、千円札を差出し「カンパです」と渡して下さった方…。まだまだ強い思いを持ち続けている人は大勢います。
私は署名開始の頃、署名用紙は必ず持ち歩き、メーデー会場までの通路で、国民平和台行進の集合場所で、開会前の参院選総決起集会の会場で、衆院5区補選や参院選の電話かけ場所で、署名集めに頑張りました。署名は誰にでもできる『原発はいらない』の意思表示です。そういう方たちの思いを1筆でも多く集めていきたいものですね。(厚別区 岩清水暢子)
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《原発連ニュースに見る道原発連の歩み》 第4回
チェルノブイリ原発事故で安全神話が崩壊したなか、
横路道政も泊原発容認へ 小室正範(道高教組中央執行委員)
1982年9月には堂垣内知事に要求書、署名を提出。「7次策」(1981年)による石炭産業とりつぶし、夕張新鉱閉山に反対などの要求とともに、「安全性の確保できない泊原発計画の中止を求めるとともに、原発の新規立地はさせないこと」を求めましたが、自民党知事は計画を承認.電源開発調査審議会は1983年3月の第88回審議会で泊1、2号機を国の電源開発基本計画に組み込むことを決めます。
一方、1984年には動燃がすすめる幌延町への放射性廃棄物施設建設計画が明らかになり、原発連は9月に、高レベル廃棄物処分施設「工学センター」計画に反対する現地調査(28~29日)を実施。この問題での「連絡センター」設置など、全道的な取組みを呼びかけました。
このあと「核のゴミ捨て場ノー」と声を上げた酪農民を中心に人口3500の町民の中への宣伝などが取り組まれますが、同年(動力炉・核燃料事業団)は「立地環境調査」などの事前調査を強行。これに対し原発連の中心となっている統一労組懇が幌延町で住民集会を開き、住民宣伝(1985年12月)などを行いました。
1986年4月チェルノブイリ原発事故が発生。安全神話が崩壊し、道民が泊原発建設中止を求めているにもかかわらず建設をすすめる北電とこれを容認している道に対し、原発連参加の各団体が、泊原発の建設中止、幌延の高レベル放射廃棄物施設建設反対の行動に立ち上がりました。
道高教組などは5月10日、北電と道に要求書を提出。しかし、北電の回答は「(ソ連の原発は)日本の原子炉とはまったくタイプが異なる」「安全性は十分確保されていると考えている」「原子力は不可欠であり…建設を進める」というもの。道(横路孝弘知事)も「国に対し、より一層の安全性が確保されるよう強く求める」として泊原発建設を進める態度を明らかにしました。
横路知事は1988年7月21日、核燃料搬入、10月試運転開始という北電の無謀な計画も転換を求めず、運転を前提とした核燃料条例をこの年の第2回定例道議会に提出。当初原発反対の世論に押され「泊原発運転延期」決議案を出した与党・社会党道議団も、自民、公明の反対を理由に提案を取り下げ、共産党の共同提案申入れを拒否しながら核燃料条例には賛成という態度となりました。
運転開始が迫る中、運動の側も当初「試運転中止を求める道民投票条例直接請求運動」を行うとしていた全道労協が、これを「運転開始に対する道民投票」に変更。「ニュー社会党」道政「与党」となり、原発推進の同盟労組との「統一」という「労戦統一」の実際を示すことになりました。原発連は各界の広範な団体とともに「安全性の未確立な泊原発と幌延の貯蔵工学センターを設置しない」条例制定を求める直接請求に取組みましたが、わずかな期間で54万筆の署名を集める取組みが全道に広がり、北海道の社会運動の歴史に残る画期的な運動となりました。